このコーナーは冥土への旅と名づける一風変わったページとなっています。

人間は年齢を重ねるほど気が短くなります、それは死ぬまでの時間がないから

急いでいるのだと思って勘弁してくださいね、決して自己に執着している

わけではありません。自己を突き詰めながら自己を忘れ去ることによって

                     真理を探しているのです(といいながら喜寿を前にしてまだまだ、、とほほほ)

生もひと時のくらいなり、死もひと時のくらいなり、たとえば冬と春のごとし。冬の春となると思はず、春の夏となるといわぬなり。ひとの悟りをうる、水に月の宿るがごとし

仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり、自己をわするるというは自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり、、

満開の桜を眺めながら道元禅師のお言葉を反芻しています。

人はこの世に生を受けたその時から、この道へ向かって歩いているのだと思います。人生わずか50年と言った大昔から現在は人生100年と変わりましたが、この100年はこの宇宙ではどの位の長さなのでしょうか、私はいつもそれを考えます。さぞや針の先位ではないかと?いや目には見えないかもと・・・

でも人は生きています。総ての人がよりよき人生を求めて、純粋にです。親から貰った100年の命を私は四分の一を残すのみと成りました。

大事に、守って《健康》 楽しんで《趣味》 勉強して《知識》 他の人の手助けも少し出来て一緒に楽しむ《ボランテイア》 などの道、今後もこれ等を基本にして、この残り四分の一の人生を探求し自分のエンディングノートを作りたい思いです。

                                             

(これはあくまで理想であって現在は動きは鈍いし、物忘れは酷いし、脳の回転は悪いし、どうしましょう。でも少し無理をして頑張らねばと自分に発破を掛ける、おばあちゃんなのであります。) ちびくろばっぱの泣き笑い人生より。(;_;)(^o^)

 

 

昭和20年3月10日の戦災記       

今から60年前のことです。下町本所で大空襲に会った事です、火に追われて、近くの
小学校に逃げ込んだのです。自分の出た小学校ですが、この辺りの小学校は皆鉄筋3階建て
の校舎でしたので迷わず逃げ込みました。
風速何十メートルかの風、辺り一面火の粉ではなく火の親の様なのが飛び狂う中、前を
走る姉について、必死で走りました。前を走る姉の防空頭巾に火の粉が付くと、途端に
パット火が燃え上がるんです。後ろの私が持っている何かで叩き消す。そんな事をしながら
学校に入りますと、大勢の人が満杯の状態で体育館(昔、講堂)に居ました。
講堂の隣の住宅が燃える時、外に面した、羽目ころしの窓の硝子がバリバリッと音を立てて
割れバラバラと火の粉が入ってきました。燃えたら最後です。大人も子供も死に物狂いで
火が入ったぞー!!と叫びながら叩き消しました。朝までには、周りの住宅も全部焼け落ちて、

火はやっと静まりました。
中の何百人かの人も助かりました。両親と弟とも会えました。父の話に依りますと、火を消
そうとしていて一番最後になってしまって、荷造りしてあった行李を一つ担いで学校に入った
あと、間もなく鉄の扉が中から閉められたそうです。後の人は入れなかったそうです。
周りは一面火の海ですから、入れなかった人のことを考えると、悲痛の思いです。
この学校は何とか助かったのですが、火が中に入って、学校全部焼けてしまい、逃げ込んだ大

勢の人達は皆助からなかった学校も有りました。

きようは午前カラオケの同好会で市のコミュニティに行きましたが、お父上やお母上を亡く
された友達が震災祈念堂で追悼式に出られていらっしゃることを思い帰宅後、黙祷しました。

今朝 8時ですが、あ、今頃でしたっけ、と思ったのです。それは、前の晩母が明日の用意にと

鉄釜にお米をといで置いたのですが、朝方に私の家が焼けて、焼け跡に行ってみたら、其の火で

ご飯が丁度良いかげんに炊けていたんです。家族皆で泣き笑いしながら、おにぎりして食べた事、

そんな事思い出して涙がこぼれました。

 

綾小路君麻呂さんではありませんが、あれから60年6人家族も今は私と弟の二人きりです。
でも生きてる事に感謝、感謝、NHKの昨年朝のドラマじゃないですが、人生、生きちょるだけ

で丸儲け。二度とあのような事の起こらぬことを願いつつ。                       









 

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